島岡要 「痛みとゲノム」


 患者中心の医療をよりよく理解してもらうために、慢性疼痛のチーム医療を学ぶ学生の皆さんには、分子生物学・分子遺伝学的な考え方を身につけてもらいたいと考えています。痛みの訴えは、患者さんの置かれた環境や、その人自身の考え方や感じ方に大きく影響を受けますが、同時に遺伝的な要因も患者さんの感じる痛みの種類、程度、持続時間などに大きな影響を与えます。慢性疼痛に関与する遺伝子、いわゆるChronic pain genesは100以上報告され、多くは神経伝達経路に関わる分子をコードしています。例えばオピオイド受容体や神経伝達物質の代謝酵素(カテコール-O-メチルトランスフェラーゼ)のゲノム遺伝子の僅かな違い(1塩基多型:SNP)が、鎮痛剤に対する反応性の違い、痛みの感じ方や慢性疼痛発症のリスクに関与していることが明らかになってきました。

 慢性疼痛の病態を科学的視点から理解することは、将来的に新規治療法や診断法の開発につながる可能性があります。10年前の教科書「ワインバーグ・がんの生物学」には、“病態に関連する遺伝子を見つけることは、病気の理解を深めるが治療には直接役立つことはないであろう”と科学が医療を変える可能性にはネガティブな見解が書かれていました。慢性疼痛についても同様でした。しかし現在私たちはCRISPR等を使ったゲノム編集技術を使ってヒトの遺伝子配列を自由に書き換えることができる力をもつ可能性を持ち始めています。新しい医療技術は常に倫理的問題を社会に突きつけるということを忘れてはなりませんが、医療イノベーションを起こす科学の力について正しい理解をすることが必要です。

 患者さんの訴えに耳を傾けるときに、分子生物学や分子遺伝学を意識することがどれほど役に立つのでしょうか。ドーキンスが「利己的な遺伝子」で表現したように、人は単なる遺伝子の入れ物ではありません。しかし逆に人は遺伝子から完全に独立した自由意志をもつとも科学的には言い切れないのです。リベットらの研究によれば、遺伝子プログラムが指令する脳の活動は、ヒトが意識的に動作を決定する約0.3秒前に起こることがわかっています。自由意志は自由ではなく、遺伝子に操られている可能性があるのです。このような分子生物学や分子遺伝学的な知見や考え方を学ぶことは、多角的で客観的な視点を育むことに役立つと考えます。

しまおか もとむ


医学者・麻酔科医、三重大学バイオエンジニアリング国際教育研究センター代表、地域災害医療リーダー育成センター代表

1989年➤大阪大学医学部卒

2003~2010年➤ハーバード大学医学部麻酔科 助教授および准教授

2011年➤三重大学大学院医学系研究科 教授